いい会社をつくる

| HOME | 伊那食品 |

伊那食品

塚越寛(つかこしひろし)伊那食品工業会長

「いい会社をつくりましょう」
日経新聞夕刊/06/5/22-26

寒天ブームで収益伸びたが「増えすぎ」
会社は社員の幸せのために存在
着実な成長を続けることで永続できる

日本アルプスに囲まれた信州・長野の伊那谷。ここに本社を置く粉末寒天の大手メーカー、伊那食品工業の塚越寛さん(68)はユニークな経営方針を貫き、48年連続増収増益を達成した。昨年は寒天ブームで業績が大きく伸びたが・・・。

昨年12月期の売上高は200億円、経常利益は38億円で前年同期に比べ4~5割の増加です。
が、大変残念な結果と言わざるを得ません。
売り上げも利益も7%程度の伸びでよかったのに増えすぎました。
業績が急に伸びると、反動が絶対にあります。
我々のような従業員400人ほどの企業は、大企業と違って人材が豊富ではありませんから、業績の伸びに社員の能力がついていかず、業務内容が空洞化してしまう。
ですから、急成長はしない方がいいんです。
昨年のブームはテレビで「食物繊維が多く含まれ、肥満や高血圧、高脂血症、糖尿病などに効果がある」と取り上げられたことがきっかけ。
ものすごい量の注文が殺到しましたが、当初、私は応じるべきではない、と考えていました。
しかし、消費者の方から切実な手紙がたくさん来ました。
「糖尿病に悩んでいる」とか「健康に恵まれず、体を丈夫にしたい」とか。
社員に手紙のことを話したら、みんな「やります」と言ってくれたので、工場を初めて24時間稼動にして増産したのです。
ところが2ヶ月たつと社員たちが疲れ切って「これはアウトだ」と思い、注文量に一定の比率で割り当てる方式に戻しました。
ブームが過ぎれば余るという読みもあった。
案の定ブームは去り、ある問屋からは逆に在庫を引き取ってくれと都合のいいことを言ってくるありさまでした。
 

売上高利益率や時価総額など、数字の大きさがもてはやされる時代に、急成長を戒める姿は異例。半世紀近く経営を担い「会社とは何か」を考えて導きだした結論だ。

1958年に経営を任されて以来、社員が力を合わせて難局を乗り切る経験をする中で、会社は経営者や会社自体のためではなく、社員全員の幸せのために存在する、と考えるようになりました。
会社の発展を通して社員みんなが幸せになり、モラルが上がると、その地域の雰囲気も良くなり、社会に貢献できる。
そのために必要なのは、会社が永続することです。
永続には急成長ではなく、安定的な成長がいい。
急成長の後には急激な落ち込みがあることは歴史が教えてくれています。
リストラで社員や取引先を路頭に迷わせ、工場閉鎖で地域社会にも迷惑をかける。
私の座右の銘は二宮尊徳の「遠きをはかる者は富み、近きをはかる者は貧す」。
目先の利益を追わず、着実な低成長を年輪のように重ねることで、会社が永続し、会社に直接間接にかかわる人々が幸福になるのです。
そうした考えを簡潔に明文化した社是が「いい会社をつくりましょう」です。
名刺大のカードに印刷して社員全員が携帯しています。
経営上の数字がいいだけでなく、周囲から「いい会社だね」と言ってくださるような会社をめざしたいと思っています。
 

会社で気になるのは数字でなく雰囲気
3年間入院、働けることの幸せを知る
社員やる気引き出し役に徹する

父親を早くに亡くした。終戦後に貧しい生活を強いられ、栄養不良から大病を患う。辛い経験が悟りを開かせた。

1937年、長野県南部、今の駒ヶ根市に生まれました。
父は洋画家でしたが、私が小学校二年生の時に亡くなったので、あまり覚えていません。
でも美的センスは受け継いだのかも。
会社運営も数字じゃなく、社内に絵や花を飾って雰囲気を良くしようとか、そんなところが気になりますから。
実は社長から会長に退く昨年まで役員応接間に父の作品を掛けていました。
母は家でコメやイモなどを作りながら、働きに出ました。
私も小学生時分より学校からいったん帰って農作業を手伝い、また学校に戻るようなこともしました。
それでも学業成績が良かったので、やればできるという自信があった。
ところが高校二年の時、栄養不足と過労で、父と同じ肺結核になりました。
高校を中退せざるを得なかった。
同級生250人中、結核にかかったのは私だけ。
「一番苦学生のおれがなぜ結核に」と、この世に神も仏もないもんだと思いました。
結局、三年間入院し、その間に身長が15センチも伸びた。
青春のすべてを療養に費やしたようなものです。
ショックでしたが、人間的に成長できました。
暗い病室にいると太陽の下で普通に歩けるだけでも素晴らしいことなんだと思えてきた。
ましてや人間が健康で働けるというのは、何事にも代え難い幸せと悟ったのです。
幸い化学療法で完治。
退院後、就職難の時代だったんですが、地元の木材会社に拾ってもらえた。
働けることだけで幸せとの意識で懸命に仕事をしました。
 

働きぶりが認められ、木材会社社長の知り合いが経営する寒天製造の伊那食品工業の経営を任されることに。でも、ないないづくしの赤字会社だった。

木材会社では雑役でなんでもやりました。
ある日、トラックで山道を40キロも行ったのに手違いで積み込む木材が現場になかったことがあった。
手ぶらで帰れないと思い、近くで伐採した木材が置いてあるのを見つけ、所有者を捜して売ってもらい満載で帰ってきた。
そんな気の利かせ方が社長の目に留まったのでしょう。
入社して一年半の21歳の秋、「伊那食品に往って経営を立て直してくれ」と頼まれたのです。
寒天というのは、伊豆などで採れるテングサやオゴノリなどの海藻が原料。
煮詰めて抽出した液を固め、それを冬の夜間の寒さで凍結させ、日中の温かさで融解させる作業を繰り返して水分を抜き、料理に使いやすい棒状や糸状、粉状の寒天にする。
この地域は冬は寒く日中晴天が多いことから、農家の副業として寒天業が発展していました。
1958年、伊那食品に社長代行という妙な肩書きで入社。
でも従業員が17人、年商1千万円だけど赤字も年数百万。
技術も信用も社員も得意先もないに等しい。
会社の体をなしていなかったですね。
寒天のことなど何も知らない若造だから、化学の参考書をボロボロになるまで読み、生産技術も学び、経理も独学で。
でも困ったのはお金がないので、新しい機械が買えないこと。
やれることといったら、結局社員のモラール(やる気)を向上させて生産性を上げることしかなかったのです。
やる気を引き上げるために私と当時の社長が率先して何でもやりました。
機械が壊れたら徹夜で修理するのは私たち。
給料の遅配は当たり前で社員を先に、最後にもらうのも私たち。
わかったのは、突発的な仕事、嫌で難しい仕事は群集心理を利用して、わーっとみんなでやった方が力を発揮するということ。
釜を入れ替える作業を四日間ぶっ通しの徹夜でやった時、女性従業員が炊き出しをしてくれ一体感が高まった。
そんな経験から、苦労に報いるには社員の幸せのために経営しようという考えがかたまっていったのです。
 

黒字転換のころ石油ショックで寒天暴騰
大もうけしたが、業界は信用失う
価格と品質安定へ海外仕入れ先開拓

あの手この手でようやく業績が上向き、入社十年を過ぎて黒字経営に。だが、石油ショックで業界全体が激震に見舞われた。

だんだん赤字幅は縮小していきましたが、すぐに黒字とはいきませんでした。
当時の寒天は業務用で、ユーザーはようかんといった和菓子やゼリーなどをつくる菓子メーカーが主。
利幅が薄くもうからなかった。
そこで当時人気のあった粉末ジュースをまねして作ったこともあります。
実際に商品を買ってきて、白い紙の上にぶちまける。
虫眼鏡をのぞきながら針を使って粒子をより分け、同じ粒子が集まったら指につけてなめるんです。
「酸っぱい」「甘い」というのがわかったら、薬局に行く。
こんな形や色で酸っぱいのは何ですか、と尋ねてクエン酸だとわかるというふうに一つずつ成分を割り出し、メロンやオレンジ、パインなど独自の粉末ジュースを作り出した。
こっちの方が寒天よりもうかったこともありましたね。
やっと黒字に転換して経営が軌道に乗ってきたころに襲ったのが1973年の石油ショックです。
寒天は当時、値段の上り下がりが激しい相場商品の代表格とされていました。
冬場に農家の副業として作ることが多いため、暖冬で寒天が腐ってしまうと、価格が上がるのです。
原料のテングサなどを採る海女さんの高齢化が進み国産原料が手に入りにくくなり、これも価格に影響しました。
寒天の生産者や問屋がこうした状況を逆手にとり、不作の年には売り惜しみで価格を釣り上げ、菓子メーカーから不興を買うような状況でした。
インフレを招いた石油ショックでその問題が極みに達しました。
一年で価格が三倍に暴騰。
我が社は当初値段を抑えましたが、日本中の注文が殺到してしまったので、世間並みに上げざるを得なかった。
ものすごくもうかりましたが、菓子メーカーから「こんなことならようかんを作るのをやめて違う菓子を作るぞ」と迫られ、業界全体が信用を失った。
私も極度の心労でストレスに悩まされました。
 

これを契機に、業界の体質を変えてやろうと改革に乗り出す。海外にも活発に活路を求めた。

こんなに価格が上下してユーザーに迷惑をかける状態では業界の未来はありません。
そこで、価格、品質、供給の三つを安定させることを目指しました。
暴騰で得た利益をつぎ込み、大量の原料を備蓄できるよう倉庫を四棟建設。
工場、生産設備も大型化して、供給力を増やしました。
さらに原料である良質な海藻を安定的に確保しようと世界中を歩き回りました。
チリ、大西洋のポルトガル領アゾレス諸島、モロッコ、中国、韓国、ベトナムなど20カ国ほどで、提携先企業を探した。
ただし、人件費のやすさに目をつけて原料をやすく買いたたくのではなく、現地企業を育てながら仕入れる方策をとりました。
出資する合弁会社はつくらず、うちからは技術指導をするだけで駐在員も置かない。
向こうは技術は欲しいけど、経営には口は出してほしくないんですよ。
彼らは原料の品質を改善できるし、うちは日本向けは独占的に供給してもらえるという、双方に利益が出る形にした。
今は韓国など四カ国に長く良好な関係を続けている提携先があります。
人件費の安さを求めて低開発国を渡り歩くような現地進出では信用されないし、根無し草になってしまうのではないでしょうか。
こうした努力の結果、相場が高騰した時にはうちが備蓄を大量に放出し、寒天の値段を安定させることができるようになった。
そこで1977年、業界紙に意見広告を出して「寒天はもう相場商品ではありません」という宣言をしました。
 

家庭向け商品、全国展開の誘い断る
通信販売で顧客と理想的関係を築く
商品開発、「偶然に発見する力」重視

業務用が多かった寒天を家庭でも親しんでもらおうと、新たな家庭用ブランド「かんてんぱぱ」を立ち上げる。人気商品になった。

実は入社してすぐ開発した「ピッケル」という名の家庭向け商品がありました。
早世した父が、あごがとがっていて「ピッケル」というあだ名で呼ばれていたことから、オマージュ(敬意)を込めて名付けたんですが、全然売れなかった。
「寒天」という名詞をもっと世の人に知って意識してもらわないと伸びないと思い、社員と一緒に考えたブランド名が「かんてんぱぱ」です。
1980年のことです。
当時、NHKの番組に、三波伸介さんが司会をする人気コーナー「減点パパ」がありました。
有名人の父子が登場するもので、これにひっかけたのです。
商標に半濁音を入れるといい、という計算もありました。
キャプテン・クックからとった「かんてんクック」という商品も作りました。
「かんてんぱぱ」の商品は長野県と山梨県の一部で店頭販売を始めました。
翌年、簡単にフルーツゼリーができる商品が人気を呼び、ある全国スーパーから扱いたいとお誘いがあった。
断りました。
うちのような田舎企業では何かあった時のフォローができないと考えたのです。
クレームへの対応部署もなかった。
全国で売ればヒット商品は忘れられるのも早い。
着実な低成長を続ける理想の「年輪経営」からはずれると思いました。
そのうち、評判を聞きつけた県外の消費者から「かんてんぱぱ」を売ってほしいという手紙や電話が相次ぐようになった。
そこで通信販売部門を立ち上げ、今では恒常的に25万人に利用いただいています。
ここでのお客様との関係は理想的です。
苦情や感謝の手紙が来ると、必ず社員が手書きで返事を書く。
今はネット販売もしますが、手紙と電話で注文を受けた昔は、なじみの担当女性社員が結婚退職するとわかると、お客様からどっとお祝が届くこともあった。
たくさん売ろうと思うと、ここまでの関係は築けません。
今は全国に営業所もひろがったので、一部商品に限ってスーパーでの販売を解禁。
直営店も9店鋪あり、自然体で増やしていこうと思っています。
 

新たな商品開発に必要な研究部門も充実させていった。そこで重視しているのは「偶然に発見する力」である。

研究室は1960年代に研究員一人から始め、その後全社員の一割を必ず研究室にあてるようにしました。
今400人社員がいますから40人が研究員です。
当初は製造技術の研究。
途中から寒天をどのように使えるか、という用途開発に力を入れるようになりました。
25年ほど前、研究室に「SERENDIPITY(セレンディピティ)」と書いた額を掲げました。
あてにしていなかった成果を偶然に見つけ出す才能、掘り出し上手という意味です。
新商品は偶然の結果からうまれることが多いので、そういう発想を奨励しています。
例えば、あまり固まらない寒天ができてしまうことがちょくちょくあった。
寒天の物性から考えると失敗作です。
でも待てよ、何か別の用途があるのではないか、そんな寒天を量産するのも一つの技術だ。
と考えて作ったのが介護食用のソフトな寒天です。
飲み込むことが難しいお年寄りなどに、水分やあらかじめ刻んだ料理をやわらかく固めて飲み込みやすくする。
この技術は特許をとり、寒天ジュースや口紅、ファンデーションにも使われました。
ですから、新たに開発したものをハイテク素材など異業種の展示会に持って行って「こんなのできちゃったんですけど何かに使えませんかね」と見せて回ることも積極的にするようにしています。
 

本社を緑の中に・・・人が集まり観光地に
モラル高めれば、地域貢献につながる
市場の評価よりも社員のためになる経営

伊那食品工業の本社は緑に満ちた自然の中にある。職場環境を良くするためにつくったが、次第に地域貢献の拠点になっていく。

敷地の広さは十万平方メートルほどで、1987年から開発をスタート。
当初は工場しかありませんでした。
緑の中に車を止めて働けたら社員が気持ちいいだろうなと思ったので、自生のアカマツ林をなるべく生かした駐車場をつくりました。
すると、駐車場を見た地元の人や旅行者から「ここに食事ができる場所があったらいいのに」という声が聞こえてきた。
そこで寒天や海藻を使ったヘルシーな食事を提供するレストランを設置。
大勢くるようになったので野草園や花壇を整備し、レストランをもう一軒。
本社も移転、四年前には誰でも利用できる他目的ホールを建設しました。
全体を「かんてんぱぱガーデン」と呼んでいます。
年間25万人が訪れる観光地になりました。
ほぼ毎年「かんてんぱぱ祭り」を開き、社員が露店を出して寒天のもとのところてんの無料サービスをしています。
目の前の道路にある歩道橋は、実は我が社が自費でかけたものです。
社員やお客様が通行量の多い道路を渡るのが危険だと思ったからです。
道路沿いの桜の木も自分たちで植えました。
地下水を使った水くみ場をつくったら、おいしいと評判を呼んで行列ができたので、もう一ケ所、専用の水くみ場を整備しました。
敷地の清掃は毎朝、社員が自発的にしています。
きれいなところには人が集まる。
職場をきれいにすることは結局、地域のための美しいまちづくりにも通じるのではないでしょうか。
それだけではありません。
スーパーなどの駐車場に車を止めるとき、うちの社員は店からなるべく遠いところに置くようにしています。
妊婦さんやお年寄り、体の不自由な方への親切につながります。
マイカー通勤では、本社への進入時に右折を禁止。
右折待ちでの渋滞を起こさないためで、遠回りでも左折で入るようにしています。
私は社員のモラール(やる気)とモラル(道徳意識)は連動すると思う。
会社が社員のことを第一に考える経営をすれば社員のモラールが高まりモラルの高い行動をする。
それが会社の地域貢献につながるのです。
 

中小・ベンチャー企業が次々と株式を公開している。しかし、今後もそうした風潮とは一線を画した経営を続ける構えだ。

90年代の終わり、証券会社がたくさんやってきました。
「上場しませんか」と。
正直言って心が動いたこともありましたが、その後のITブームで利益の極大化だとか、時価総額経営だとか、成果主義だとかがもてはやされるようになったのが嫌でやめました。
上場したら、社員や地域貢献のための経営ができなくなる気がする。
今の株式市場がそうした経営を評価して株価が上がるのならいいのですが、利益しか見ていないのでは。
「会社の目的は社員の幸福」が持論ですが、リストラで社員の首を切ったら株価が上がる市場なんて、目的と手段を取り違えていると思います。
利益は、それによって社員を幸せにする手段であって目的ではない。
世の中には「進歩軸」と「トレンド軸」があると思います。
進歩軸は理想的な社会に向かって真っすぐに進む線。
トレンド軸は世の中の流行で、進歩軸に対して直角に振り子のようにふれるもの。
トレンドには敏感であるべきですが、それが進むべき方向と思ってはいけません。
株主利益重視の米国型経営はトレンドです。
会社の安定と永続を目指すなら、それにもてあそばれてはいけない。
トレンドには目を配りながら、最適の成長率を見極めて進歩軸を歩む。
そんな経営をすすめていければと思っています。